敬天舎同人誌舎報第10号(平成2年5月)より転載  

「 父 の ニ ュ ー ギ ニ ア 戦 記 」

         

山 下 憲 男 (四十二才)


感       状 

山 下 大 隊     歩兵第二百三十七聨隊第一大隊

九揚陸隊主力

右ハ大隊長陸軍少佐山下繁道指揮ノ下ニ昭和十九年十二月下旬ヨリ青津支隊長ノ指揮ニ属シ「ソナム」以西作戦ニ従事シ善戦敢闘常ニ優勢ナル敵ヲ撃破シ支隊ノ「ソナム」以西作戦遂行ノ為絶大ノ貢献ヲナセリ

即チ十二月下旬以来「セルエン」岬「サルプ」ノ間ニ於テ終始六十名以下ノ寡兵ヲ以テ頑強且ツ優勢ナル敵ノ来攻ニ対シ一月二日断乎「セルエン」草原陣地ニ対シ攻勢ヲ敢行シ以テ其ノ企図ヲ挫折セシメ爾後或イハ斬込潜入攻撃或イハ後方攪乱或イハ拠点固守ニ連日連夜敢闘ニ次グニ敢闘ヲ以テシ逐次之ヲ破壊シ一月二十八日支隊ノ邀撃態勢確立迄克ク「サルップ」附近ヲ確保シ支隊ノ爾後ノ作戦ヲ著シク容易ナラシメタルノミナラズ爾後引続キ海岸正面ノ戦闘ヲ担任シ全期ヲ通シ敵ヲ殺スコト二二九ニ及ベリ此ノ間部隊ハ猛号作戦後ノ体力低下益々著シク且ツ訓練不十分ナル兵員ヲ主トセルニモ拘ラズ必死敢闘克ク任務ヲ完遂シ敵ニ多大ノ損害ヲ与エタルハ大隊長率先陣頭ニ進出シテ行ウ真摯適切ナル指揮ノ下全員ガ特ニ烈々タル闘魂ヲ以テ皇軍ノ本領発揮ニ邁進シタル證左ニシテ全軍ノ亀鑑タリ             

仍テ茲ニ感状ヲ授与シ其ノ勲績ヲ顕彰セントス

  昭和二十年四月三日

      第十八軍司令官 陸軍中将 安達二十三


■感状(注 戦地で抜群の功績があった軍人または部隊に与えられた表彰状で、国家で定めた規定により、天皇に報告されるとともに、全軍隊に布告される)

■台湾歩兵第二聨隊聨隊旗手時の写真一枚

■指揮刀(軍刀)

■礼服(少尉時代の物)

 

以上が戦後四十四年間、我が家と太平洋戦争との接点であった。その父が昭和最後の年六十三年十一月、闘病生活ののち八十五才でこの世を去って一年三ケ月が過ぎようとしている。


 以前、児玉正志先生より父が戦った「ニューギニア戦線」は凡そ戦争と名の付く戦史のうちで最も苛酷な筆舌を尽くしがたい戦いであり、父は希にみる生残りで、且つ貴重な体験者である。手記か体験談を寄せて貰えないかとの相談をお受けした。父は生前、戦争のことは殆ど話さず、また改まって聞く機会(雰囲気)もなかった。母に尋ねてみたが父の経歴もろくに知らされておらず、今になって只、申し訳ないというばかりである。

 父は、戦場で死んでいった多数の部下のことを思うと、負けた戦を得意になって人に喋る気にもならなかったのではあるまいか。生前「自分は一回死んだ人間だから」とよくいい奉仕する役などを多数引き受け、多くの書類を残してはいるが、戦史の類いは皆無である。それでも生前だったらまだしも、今となっては何ともならない。その旨、児玉先生にお伝えしたが、何か紙切れ一枚ぐらいでも残ってはいないのだろうか、とのお話が再度あった。また、貴重な体験をした人達の歴史を残していくのも我々の勤めである。と諭されて、一介のコンピューター技術屋が、ワープロを前にして、原稿作成を始めた。

偶然、父の戦友であった皆藤氏(当時の山下大隊の副官、陸軍中尉、現在茨城県在住)より「終戦直後復員時に作成し厚生省に提出した第四十一師団、歩兵第二百三十七聨隊の名簿に関する資料の原紙が鹿児島の大隊長の家にある筈なので見せて欲しい」との知らせがあった。母と一緒にそれらしき所を捜してみると聨隊隊員の留守名簿、戦死兵功績列次名簿、死没者名簿、それに父が賜った勲四等瑞宝章等の各種勲章、戦後極東米軍指令部の要請により書いた作戦の教訓、在郷軍人会誌の要請により書いた作戦史等が出てきた。

 特に私が驚いたのは、聨隊留守名簿に記載されている将兵の殆どが戦死と記入され、生存者が余りにも少ないことであった。つまり、歩兵第二百三十七聨隊、四、〇七四名(ニューギニア転進の為の編成時)から二年有余の想像を絶する戦いをし、戦死者三、四七九名。他部隊への転属者、内地帰還者、行方不明者を除き、終戦の翌、昭和二十一年復員船で日本の土を踏めたのは聨隊で四六名、生存率約一%、損耗率九九%であった。

 山下大隊も昭和十八年四月ニューギニア上陸時の兵力、約一、二〇〇名、同じく日本の土を踏めたのは僅か8名、生存率0・6%、損耗率九九・四%であった。南方の孤島での戦闘がいかに激しいものであったかは、戦後生まれで戦争体験のない私には数字の上でしか理解できないのである。
 

父の生前だったら聞こうと思えば幾らでも聞けたことが、今となっては書き残された文章のはしはしでしか皆様方にお伝えできないことをお許し願いたい。

 また、父の戦記は、要求されて記述したものであり、局地的な戦闘場面の主要なポイントのみを綴っている。従って、その背景ならびに史実で特に必要と思われるものは、防衛庁防衛研究所戦史室が編纂された「戦史叢書」、ならびに第四十一師団将兵の書かれた手記の一部を抜粋して転載した。
 

文章は、原文のままで掲載したが、一部現代かなづかいに直したり、また戦後生まれの読者(敬天舎同人)もおられることを想定し、(注)で補足した部分もある。


それでは父の戦記を掲載する前に当時の時代背景をご紹介する。

  一、時代背景

 太平洋戦争の敗戦への分岐点として海軍はミッドウェー海戦、陸軍はガダルカナル作戦であったといわれている。昭和十七年一月、当時太平洋方面で海軍最大の根拠地であったトラック島の前進根拠地として陸海軍協同してニューブリテン島のラバウルを占領した。

 次に大本営は豪州の孤立化を企図し、太平洋における米豪連絡線を遮断することとし、陸軍は第十七軍(軍司令官 百武晴吉中将)を新編し作戦を準備した。ところが五月中旬の珊瑚海海戦、六月上旬のミッドウェー海戦の結果、大本営は遮断作戦を中止し、第十七軍に対して東部ニューギニア南岸の要衝ポートモレスビーの攻略を命じた。

 一方、連合軍はラバウル奪還の作戦を計画し、その攻勢をソロモン諸島のガダルカナル島から始めた。陸軍は一木支隊(長 一木清直大佐)、川口支隊(長 川口清健少将)を同島に派遣したが、その攻撃はいずれも惨澹たる失敗に終わった。第二師団(長 丸山政男中将)、増援した第三十八師団(長 佐野忠義中将)も完敗し、ガ島の戦局は餓死者が出るほどの、大東亜戦争開始以来の重大な局面を呈するに至った。

 これに対し大本営はまず第五十一師団(長 中野英光中将)の派遣を令し、次いで第八方面軍(軍司令官 今村均大将)の編成派遣を下令した。昭和十七年十一月九日第八方面軍新設で参内した今村司令官に対して、天皇は「南太平洋より敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有する。速やかに苦戦中の軍を救援し、戦勢を挽回せよ。」とご自身準備されたものを読み上げられたあと、「今村、しっかり頼むぞ」と強くおっしゃった。その際、もう一つ侍従武官を通じ、次のような内意をもらされた。「ただガダルカナル島攻略を止めただけでは承知し難い。どこかで攻勢に出なければならない。どこかで積極作戦を行えぬか。」
 

開戦以来、いたるところで勝ち続けていた日本軍が、退却したとなると国民の士気に影響する。このバランスをとるため、どこかの正面で攻勢をとれないかという、至極当然なご判断である。そこで杉山総参謀長は、ニューギニアで攻勢をとり、士気を盛り返しますと奉答した。杉山総参謀長がどの様な理由で、このような奉答をしたかは明らかでない。

 十一月二十六日指揮権を発動したこの方面軍は、ソロモン方面を担任する第十七軍と新たに東部ニューギニア方面を担任する第十八軍(軍司令官 安達二十三中将)を基幹とし、戦略単位の兵団としては前述の各師団のほかに、第六師団(長 神田正種中将)、第二十師団(長 青木重誠中将)、第四十一師団(長 阿部平輔中将)、第六十五旅団(長 眞野五郎中将)などが、その隷下に入れられた。

 既に制海、制空権を喪失したガ島の戦場において、飛行場奪還の目途なしと判断した大本営は、十八年一月上旬、同島の兵力を撤退する大命を発したので、十七軍の諸部隊は北部ソロモンのブーゲンビル島に撤退した。
 

さて、ニューギニアでは十八軍が二月中旬までに、第二十師団はマダン、第四十一師団はウエワクにとそれぞれ展開を終えた。続いて八十一号作戦のもとに、ラエ、サラモア守備を担当する第五十一師団の主力約七、〇〇〇名と第十八軍戦闘指令所が東部ニューギニアのラエへ向かったが三月三日ダンピール海峡を過ぎラエを目前にして海上で米軍の、延べ一四六機の空襲を受け二十分の瞬時に輸送船七隻、駆逐艦四隻が撃沈され、兵員約半数が死んだ。

 安達司令官はラバウルに引き返し、第五十一師団、師団長以下約一、二〇〇名が辛うじてラエに上陸した。戦史上これを「ダンピールの悲劇」という。この悲劇を奏上に参内した杉山総参謀長に対し、天皇は、数々の質問の後「今後、ラエ、サラモアが、ガ島同様にならないように考えてやってくれ。ガ島の撤退が成績がよすぎたので現地軍に油断ありに非ずや。後の兵力は如何に運用の腹案なりや」とご下問された。総参謀長は「今次の敵航空兵力の実現より、現状としては、マダン付近の飛行場を充分に整備し、防空態勢および交通路の整備を図り、聖旨に副うべく指導致したいと存じます」と奉答している。ニューギニア攻勢は、天皇も期待されていただけに、「ダンピールの悲劇」に対し永野軍令部総長に輸送作戦の失敗について「原因を探求」するよう命じられている。この時期の天皇のご関心ごとはニューギニア攻勢の維持であった。
 

一方、十八軍の諸部は東部ニューギニアの目標地ポートモレスビー近くまで進出したが補給が途絶し、戦史上「サラワケット越え」と呼ばれている悲惨な脱出を行った。この頃から連合軍の「蛙飛び戦法」(後述)が始り、前方地域に取り残された日本軍は、危険を冒して敵中を突破して後退せざるを得なかった。
 

大本営は十八年秋、南方方面で極力持久を策し、この間速やかに豪北方面から中部太平洋方面要域にわたり、絶対国防圏構想に基づき連合軍の反攻企図を破砕するという作戦指導方針を確立していた。矢継ぎ早の連合軍の侵攻を迎え、制空、制海権を殆ど喪失してしまったこの方面の作戦は、第一線部隊の必死敢闘にもかかわらず、このような一般方針と現実との断層があまりにも大きく、例えば、補給上の見地から戦闘を一時中断して、虎の子の作戦部隊主力を後方からの担送に使用するまでに至っていた。
 

ダンピール海峡が突破され敵中に孤立することになる第八方面軍に、直接中央の意図を伝達するために大本営は二月中旬参謀次長秦彦三郎中将、第二作戦課長服部卓四郎大佐以下をラバウルに派遣。一行がトラック島に到着した翌日、同島は連合国機動部隊の大空襲を受けた。この被害は、戦争指導上一大転換を余儀なくするもので、緊急事態に対処するため陸海軍大臣が現職のまま、参謀総長、軍令部総長を補親するという、統帥権上の変革が行われるほどの重大なものであった。

 かくして三月二十五日零時、第十八軍は第八方面軍の指揮を離れ、第二方面軍司令官(長 阿南惟幾中将、のち大将で終戦時の陸軍大臣)の隷下に編入され、ブナ、ギルナに始まり昭和二十年八月の終戦まで二年九ケ月間、終始マッカーサー軍との間に難戦苦闘を繰り返すのである。さて、「蛙飛び戦法」つまり「飛び石作戦」とは(堀 栄三著「大本営参謀の情報戦記」より転載する。)

 ローラーで一面に押してくる方式では無く、必要な所だけを蛙が跳ぶように占領していく方式で、マッカーサーのこの作戦は、昭和十九年になると急速にスピードを増加してきた。

 ニューギニアに於いては十九年一月グリーン島、二月末アドミラルティー諸島、四月ホランジャ、アイタペ、五月ワクデ、サルミ、五月末ビアク、七月ヌンホル島、七月末サンサホール、九月モロタイ島、ペリリュー島と、あたかも庭の踏み石を飛んでいくようなやり方で上陸作戦を実施してきた。マッカーサーの狙いは最終的には日本本土を米戦略空軍の爆撃可能空域に入れる為の基地獲得による制空権の確立であった。

 ニューギニア島の北岸は、赤道に近い東西千三百キロにわたる長い海岸線と二千メートルを越す脊梁山脈との間は、一面のジャングルに蔽われた前人未踏の土地で、これは土地というよりも海であった。進むに進まれず、軍隊の歩行を頑として拒否している。その原始林のジャングルの海の中に、ポツン、ポツンとわずかばかりの軍隊の展開できる平地があるが、これはジャングル海の孤島であった。

日本がニューギニアを東西に連なる陸地と考えていたとき、統治国の豪州を友軍とした米軍は、戦前から既に地誌資料を得て「これは陸続きではない、海だ。点々と存在する猫の額のような平地は、樹海の中の孤島だ」と、研究を終えていたのである。そして米軍は、これを支配するのは歩兵ではない、航空以外にないと判断していたのである。しかるに日本の大本営は、ニューギニアを地図通り、歩兵の支配する普通の陸地と誤認した。

ここでの敵は米軍でも、豪軍でもない。道無きジャングル、雨季で増水する名も分からない川の氾濫、補給皆無による饑餓と疲労と疫病(特にマラリア)であった。 日本軍最高指令部は東京にある大本営、米軍最高指令部はニューギニアのポートモレスビーに在った。どちらが戦場を存分に知り尽くしていたかは、それだけでも明瞭であった。

ブナに飛行場を占領した米軍は、早速その飛行場を利用して制空権を取り、次のサラモア、フィンシュハーフェンと制空権を推進してくる。この原始林のジャングルの中で米軍が狙ったものは、ただ飛行場の確保だけであった。日本軍が孤立無援の中で必死に土地を占領している間に、彼等は飛び石で、空域を占領していった。

 一方、日本軍にもこれに似た思想が無かったわけではない、太平洋の多数の島は日本軍守備隊の在るところ必ず飛行場があり、全部がこの飛行場を守っていたのである。しかし、これら飛行場は、近くに米軍の艦隊が出現した時、航空母艦代わりに爆撃機や雷撃機を進出させるための飛行場であって、米軍のように制空空域を占領するためのものではなかった。この大違いの戦略的見解が、一方は玉砕になり、一方は空域の推進となって、日米の勝敗を分けてしまったことになる。

 この飛び石の距離は東部ニューギニアでは、最初の距離はせいぜい三百キロどまりであったが、日本の戦闘機が劣性になり、米軍の戦闘機の性能が向上したニューギニアの西部からは、行動半径が一千キロにもなって距離が飛躍的に伸びてきた。米軍の大戦略目標はニューギニアをつたってフイリピンへ行く矢と、中部太平洋を通ってフイリピンへ行く矢のうち、必要な石のみ選んで飛ぶのである。

 太平洋で日本が守備隊を配置したのは大小二十五島、そのうち米軍が占領した島は、僅かに八島に過ぎず、残りは見向きもされなかった。米軍にとって不要な島の日本の守備隊は、いずれ補給もない孤島で餓死すると見たのだろう。戦後の調査資料では、前記二十五島に配置された陸海軍部隊は二十七万五千人、そのうち八島で玉砕した人数が十一万六千人、孤島に取り残された人数が十六万人、そのうち戦後生還した人数が十二万強、差し引き四万人近くは孤島で、米軍と戦うこともなく、飢えと栄養失調と熱帯病で死んでいったのである。

 特に、ニューギニアの安達二十三中将麾下の第十八軍の当初の兵力は、三個師団と海軍守備隊を基幹とする約十四万八千人。陸続きと思った原始林のジャングルを伐り拓いて、八百キロ以上の死の大行進をして、西へ西へと進んだが、米軍の飛び石作戦の方が先に進んでしまって、アイタぺに兵力を集結し終えた時には、第十八軍は完全に米軍の後ろに取り残されていた。日本からの船での補給は完全に遮断され、米軍から見てもはや戦力では無く、太平洋と同じようなジャングルの海の孤島で、彼等の前に立ちはだかったのは饑餓と熱帯病であった。

 
戦後の資料によると、生還して日本の土を踏んだ者は一万二千人であるから、実に九十パーセント以上の兵士が無残にも命を落としてしまったことになる。

 ブーゲンビル島で最後まで残って帰った第六師団の神田正種中将は「軍紀も勅諭も戦陣訓も、百万遍の精神訓話も飢えの前には全然無価値であった。」と述懐している。大本営作戦当事者たちは、太平洋の島々の戦闘がこんな極限状況を呈することなど予想すらつかぬままに、作戦を指導していたのである。

 太平洋やニューギニアの戦場での将兵の勇戦奮闘と殉国の精神を称える一方、所詮、戦略の失敗を戦術や戦闘でひっくり返すことはできなかったということである。以上、「大本営参謀の情報戦記」より転載。

 戦場の悲惨が語られる時、ガダルカナル島が代表として挙げられ場合がある。ガ島で戦った将兵総数は約三万余、戦死約二万余、生還約一万といわれる。ガ島の戦闘期間は六ケ月、東部ニューギニアは三年二ケ月と差があるので、簡単に比較することは出来ないが、それにしてもニューギニアの戦闘がいかに惨澹たるものであったかは、全兵員数に対して戦死者数の占める割合からも察することができる。


  二、安達軍司令官とアイタペ作戦

 

ラエ、サラモア、フインシュハーヘンの戦闘で戦局が好転せぬ第十八軍へ第二方面軍、阿南大将は「速やかにウエワク以西に転移し、ホーランジャ、アイタペ、ウエワク等、特に主要航空基地の防衛を強化して持久せよ。」を命じた。

 実施に当たり、問題は第十八軍の各部隊が集結している場所から方面軍命令の場所まで約五〇〇キロ離れており、過去一年の戦闘で満足な健兵は半分もいないこと。 舟艇、自動車の無い中でどうやって軍隊を移動するのかということと、途中に世界第一のセピック大湿地帯(幅約一〇〇キロ)があることだ。

 
幕僚が手持ちの舟艇と現地人のカヌーを利用しても約二ケ月かかるとの計算になった。しかもマッカーサーが例の「飛び石作戦」で、どこにやってくるかも分からない。この機動自体が、戦術的に成り立つ条件を備えていなかったが、司令官は断乎、ウエワク以西への軍の西進を命令した。

 しかし、暫くしてその前進目標であるホーランジアとアイタペに連合軍が海上から先回りして四月二十四日奇襲上陸した。連合軍は更に二〇〇キロ西方のサルミ地区にも上陸し、第十八軍の退路を二重に切断してしまったのである。

 この急変に、大本営は六月二十日第十八軍を第二方面軍から離し、南方軍(長 寺内寿一大将)の指揮下にいれた。任務は「東部ニューギニアの要域に於いて持久を策し、以て全般の作戦遂行を容易ならしむべし」で「積極的に敵を攻撃する要はない。現在地域で自存をはかれ」と解された。

 軍レベルの部隊にこのような漠然とした任務を与えるのは例外に属する。打つ手がないこともあるが安達軍司令官の力量に任せたことにもなる。司令官がアイタペ会戦に至るまでに特に考えたと思われる点は、

一、全軍の食糧は十九年八月までに無くなる。直ちに農 耕を開始しても大部の生命を守ることは不可能である。
二、戦争全般の戦線が、西部ニューギニアから、マリア ナ海域に移動して、日本の陸海軍の総力を挙げて、興 亡を賭けて攻勢をとる時期である。

三、前進目標アイタペの敵の攻撃は難事である。だか、 その敵を当面抑留し、比島方面への進撃を遅緩させる ことは出来る。
 

これらの条件を熟考し、止まるも死、進むも死。だが止まった死は目的なき死であり、進んで死すれば、義を得る。成功の可能性は無いと知りながらも敢闘精神に徹し、皇軍の本領を発揮することによって全般の作戦に寄与し、且つ日本軍の士気を鼓舞しようという大目的がかかっていた。

 六月中旬アイタペ会戦に参加する第二〇師団、第四十一師団の将兵の実情を視察しながらこのアイタペ攻撃が普通の軍事常識では到底無理であることを改めて思い知り更に熟考を重ねた。
 

軍戦闘指令所を第一線に近い木村村附近に移動し、その木村村の第二十師団指令部に到着した軍司令官は、六月二十日頃から進出していた田中兼五郎参謀の報告を聴き、軍の現況と先に大本営から与えられた新任務とに基づき、アイタペに対する作戦を予定通り実行すべきかどうかに関し、再度の検討を行った。
 

杉山茂参謀はこの時の事情を次のように回想している。

 「木村村の戦闘指令所で軍司令官に呼ばれ意見を求められた。軍司令官の話は、今にして楠木公の気持ちが分かるが、しかし、その精神に沿ってアイタペの攻撃を決行して良いかどうか、ということであった。この期に及んで今更という感じもしたが、軍司令官が真剣に考えておられるので、一晩考えてから返辞することにした。そして田中参謀にも、お互い白紙に戻して考えようと打ち合わせをした。一晩考えたが、考えが同じところをどうどう巡りしているような感じで、他の手段はないように思えた。翌朝、田中参謀に聞くと、決心変化なしとのことであった。そこで軍司令官に決心変化ありませんと報告した。軍司令官は、『僕も変化ない。これが楠木公さんだね。』と言われた。」

 同じ時のことを田中参謀は戦後(昭31)次のように回想している。

 「七月一日軍司令官が到着された。夜私が報告すると、軍司令官はアイタペ攻撃につき、もう少し考えさせてくれとのことであった。三年近く幕僚としてお仕えしたのであるが、もう暫く考えさせてくれと言われたのは、この時だけである。その夜、閣下はまんじりともせずに熟考された。そして翌朝、『日本外史』を手にして出て来られ、杉山参謀と私に対して、昨夜、田中が言ったような趣旨でやりたいと思う。今まで『日本外史』を読んでいたが、楠木公が湊川に出陣された時の気持ちを模範としたいと思う。という趣旨を述べられた。」

 両参謀の陳述に多少の表現の差異はあるが、安達中将が楠木正茂の湊川出陣の心境を範にとり、アイタペ攻撃の決心をしたことは間違いない。かくして攻撃決行の決意を固めた安達中将は、軍主力の攻撃開始に先立ち、七月六日、全軍に次の訓示を配布した。

 猛号作戦本格的攻撃開始ニ方リ全軍将兵ニ与フル訓示「軍ハ今ヤ猛号作戦攻撃各部隊ヲ「ヤカムル」周辺ノ地区ニ集結シ将ニ本格的攻撃ヲ開始セントス。〜中略〜今ヤ敵ハマサニアイタペ付近ニ我ガ好餌ヲ呈シアリ、是レマサニ天佑ニシテ、軍ノ有スル戦力ヲ最モ有効ニ発揮シ敵戦力ヲ撃滅シ得ベキ絶好ニシテ最後ノ機会ナリ。モシソレ当初ヨリ持久ヲ主トセンカ、遂ニ軍ノ有スル戦力ヲ発揮シ得ズシテ、悔イヲ千載ニ残スニ至ランコト必セリ。〜後略〜 昭和十九年七月五日 猛部隊長 安達 二十三」。
 

この一五〇〇字程の長い訓示は、アイタベ攻撃の理由について委曲を尽くして説明してある。戦史上これを「第十八軍のアイタペ作戦」という。

 主戦場となったドリヌモア川(坂東川)の決戦場は文字通りの死闘である。七月中旬から八月四日までの戦闘で、日本軍の損害は、ほぼ玉砕の一三、〇〇〇名であった。

 
次に、この攻撃の先陣をつとめた第四十一師団歩兵第二百三十七聨隊の概要を説明する。併せて編成時と終戦時(復員時)の兵員数を対比させた。


  三、歩兵第二百三十七聨隊

     歩 兵 第 2 3 7 聨 隊 お よ び 関 連 図

          [第18軍編成時の兵員ならびに終戦時の兵員]

第18軍  

安達中将 

148000

 10072

第41師団

阿部中将 

(戦死)   

真野中将

 19034

   574

歩兵第237聨隊 4074(他に輜重、山砲大隊あり)

奈良大佐       46

第1大隊     大隊本部(8)210    ( )は将校数

山下少佐     中隊 第1中隊(4)180

  (30)        第2中隊(4)180

  1200        第3中隊(4)180
     8        第4中隊(4)180
              機関銃中隊(5)210

              歩兵砲小隊(1)60

第2大隊 淵上少佐−宮西少佐−森本少佐(歴代戦死)
第3大隊 葛西少佐  

 


人数
上段 編成時  
下段 終戦時

 


歩兵第238聨隊

歩兵第239聨隊   

 

 

第20師団  

青木中将 

歩兵第78聨隊

歩兵第79聨隊

歩兵第80聨隊  

 

 

第51師団  

中野中将

      

歩兵第66聨隊

歩兵第102聨隊

歩兵第115聨隊       

 

 

セピック兵団

 

 

 

ムシュ、カイリル島

 

 

 

その他軍直部隊

 

 

 

 

 

 

             聨隊について……

歩兵の最大単位が聨隊であり通常歩兵大隊三個を基幹としている。歩兵の最大の特色は、天皇から直接下賜される「聨隊旗」を持っていることである。
当聨隊は水戸歩兵第二聨隊補充隊で昭和14年8月1日第41師団隷下部隊として、朝鮮龍山の歩兵第78聨隊内で編成された。

この聨隊は水戸第二聨隊より補充を受けた勇猛果敢な水戸健児で、その大部分が水戸、宇都宮を中心とした出身者の編成となっている(奈良聨隊長は大阪、山下大隊長は鹿児島ではあるが)。


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